「ボヘミアン・ラプソディー」クイーン
これはほんとに起きてること?
それとも幻?
地滑りに巻き込まれたように
この現実から逃れられない
目を開けて、空を見上げてみろ
情けない自分 だけど同情はいらない
その日暮らしだから
ささいな良し悪しはあるけど
どっちにしろ、風は吹くから
僕にとってはどうでもいいこと、僕にとっては
母さん、今人を殺してきた
あいつの頭に銃をあてて、弾き金を引いたら死んだ
母さん、人生は始まったばかりだっていうのに
たった今、終わった
自分から投げ捨ててしまったよ
母さん、悲しませるつもりはなかった
明日の今頃、僕が戻ってこなくても
いつも通りでいて欲しい、なにも起こらなかったように
もう遅い、その時がきた
背筋に寒気が走る、体中は痛み続けてる
さよならみんな、僕は出て行く
自分ひとりで、現実に向き合わないと
母さん、死にたくない
時々思う、自分なんて生まれてこなければよかったと
小さな男の影が見える
スカラムーシュだ!
スカラムーシュ、ファンダンゴを踊って!
雷鳴が轟く、稲妻が走る 怖くてたまらない
ガリレオ、ガリレオ
ガリレオ、ガリレオ
ガリレオ、フィガロ、偉大な人
でも、僕はみじめで、誰にも愛されない
「あいつは貧しい家の、哀れな男」
「このおぞましい人生から救ってやろう」
気ままに生きてきただけ、逃がしてくれ
「神にかけてだめだ、おまえを逃がすわけにはいかない」 逃がしてやれ
「神にかけて、逃がしはしない」逃がしてやれ!
「神にかけて、逃がしはしない」逃がしてくれ!
「神にかけて」逃がして絶対、絶対逃がさない、逃がして
僕を逃がさない!
だめだ、だめだ、だめだ、だめだ
母さん、僕を逃がして!
ベルゼブブが、僕に悪魔をとり憑かせたんだ、僕に、僕に!
石を投げつけて、顔に唾しようとするのか?
愛した後で、見殺しにしようとするのか?
そんなことできるもんか
出て行かないと、今すぐここから逃げ出すんだ
本当は大したことじゃない
みんな分かってる
なんでもない、大したことじゃないんだ、僕にとっては…
どっちにしろ、風は吹くから
日本語訳詞 夏川Rz
※もしよろしければ、こちらもどうぞ↓
「ボヘミアン・ラプソディー」クイーン 日本語歌詞の朗読
「ボヘミアン・ラプソディー」クイーン 日本語歌詞の朗読
子供の時はジャケットが怖くてホラーの何かだと思ってました。
(キングクリムゾンとかも。)
そんな理由で出会いを避けてた作品たちのなんと多いことか。
(原田明希子)
「ボヘミアン・ラプソディー」は、歌詞が謎めいていて、難解だと言われています。
生前、この歌詞についてしばしば問われていたフレディー・マーキュリーは、
「答えたら謎めいたところがなくなって、オーディエンスが作り上げた
神話みたいなものまで壊れてしまう」
と答えています。
そんな「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞の解釈を
ここでするのはどうなんだろう、という考えが実はありました。
しかも、自分はこの歌を長年聴いてきたにもかかわらず、
「神話みたいなもの」はおろか、歌詞をしっかりと
読んだことすらありませんでした。
しかし、この歌詞を朗読に取り上げた当事者として、
「ボヘミアン・ラプソディー」の「謎」について
自分なりに考えておくことは義務のようなものではないか、
またフレディーへの礼儀でもあるのではないか、
と思い直したので以下書き進んでいきます。
フレディーが生まれたのは、イギリス統治下にあった
タンザニアのザンジバル島。
生年は1946年、太平洋戦争終結の翌年です。
インドのムンバイ(ボンベイ)で植民地政府の役人だった父親が、
この地に異動となってからの出生でした。
両親は多くの民族や文化で構成されるインドの中で、
パールシーといわれる古代ペルシャに起源をもつゾロアスター教徒。
人口的には少数者でありながら、
富裕層で政治的にも影響を持つ階層といわれています。
ムンバイにはゾロアスター教の聖地があり、
フレディーも十代の頃、この地のイギリス式寄宿舎学校で学んでいます。
ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、
ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラを、
ドイツ語読みにしたものだそうです。
「ボヘミアン・ラプソディー」のオペラパートには、
「ここから」逃げようとする「僕」を巡って、
善と悪をイメージさせる神々が対立し、悪魔も登場します。
ゾロアスター教にも、至高神である神のもとに、
様々な守護神としての善神と
この世に悪や苦しみをもたらす大魔王や悪魔といった悪神が、
対峙し合っているという宗教観です。
大きな精神的葛藤がテーマとなっている
「ボヘミアン・ラプソディー」ですが、
フレディにとってその葛藤とは何だったのでしょう?
ムンバイでの学校生活を終えてザンジバルに帰ったフレディですが、
ザンジバルは政治的緊張が高まり、地元民衆の暴動や革命が起ります。
支配階層だったインド人やアラブ人は標的となり、
多くの死傷者が出る事態となったため、
両親とフレディ、妹の4人家族はイギリスに逃れます。
ロンドン郊外の小さな家に住み、両親は使用人として働きます。
フレディもデザインや芸術を学びながら、
古着の販売や空港でアルバイトをしていました。
当時のフレディは、親から大きな期待を担っていたと思われます。
いずれ経済的に一家を支えてもらいたい、
また、パールシーとしてのプライドや伝統、
ゾロアスター教徒としての生き方を
求められていたとも思われます。
しかし、フレディが夢中になり支えとなっていたのは音楽、
ロックでした。
また、性的マイノリティーとしての葛藤も
感じつつあったのではないでしょうか。
フレディが自由に生きようとする時、
家族との軋轢や複雑なバックグラウンドからくる
不安定なアイデンティティは、
大きな苦しみとなっていたのではないでしょうか。
「母さん、今人を殺してきた」というのは、
そうした桎梏から自分を解き放ち、音楽の道に突き進んでいくことを
決心したと感じられます。
しかし、それは「パールシーの息子」であることや
家族からの期待を裏切ることでもありました。
そうしたフレディの精神的葛藤を、
ドラマチックで変化に飛んだ構成と歌詞で表現したものが、
「ボヘミアン・ラプソディー」だったのではないでしょうか。
歌詞の結末は、「どっちにしろ、風は吹くから」
と結ばれています。
これからの自分を「風」に委ねていこうとし、
そこに微かな希望を見出そうとしているようです。
この「風」を理屈でははかり難い、
自然の大きなはからいとして捉えるなら、
人間すべてが共有できる自由な精神の境地や
そのイメージが広がってきます。
そして、それは決して難しいことではなく、
どんな人にも本来備わっているものだろう?
とフレディは問いかけ、
「大したことじゃないんだ、僕にとっては…」
自分にも言い聞かせているように受け取れます。
「ボヘミアン・ラプソディー」の日本語歌詞朗読、
ぜひ聴いてみて下さい。(夏川Rz)
※よろしければ、こちらもどうぞ↓
「ボヘミアン・ラプソディー」日本語歌詞
片山廣子「芥川さんの回想 (わたくしのルカ伝)」
どういうことなのか、以前書いた"芥川龍之介が思慕した女性 片山廣子「鷹の井戸」"が、
非常にたくさんの人に読まれています。
今も多くの人が芥川とその秘められた最後の恋に
大きな関心を持っているということなのだろうと思います。
そこで、感謝の意味もこめて芥川が亡くなった後、
片山廣子が松村みね子名義で書いた一文を掲載します。
この随筆が発表されたのは、昭和4年。
芥川の死から2年後のことです。
芥川とのことについて沈黙を守った片山廣子にとって、
芥川を回想した文章としては、唯一のものと思われます。(夏川Rz)
「芥川さんの回想 (わたくしのルカ伝)」
松村みね子
主イエス・キリストの三年の御生活を、マタイとマコは見て書いた。愛する弟子ヨハネは見、かつ感じて書いた。ルカは、それを聞いて書いた。
まだ少女の時分、私が聖書の級でそういうことを教わったとき、その四人をいろいろ空想して見、ルカはキリストの毎日を見ないでかわいそうにと思った。そしてまた、キリストの足が泥によごれているのも見ず、頭痛がする時キリストの額に八の字がよるのも見なかったことは、伝記者として一ばん幸福だったろうとも思ったりした。
四人の意見をいちいち訊いて見たら、一人一人が、自分がいちばん幸福だと云ったにちがいないが。
そのルカとは少し話が違うが、私が十余年間はるかに礼拝していたAR氏の、ことし三回忌にあたるので、その在世中の折にふれての話を何か知ってゐるなら書くようにとS氏から云われた時、私はルカを考えた。もし私の耳学問をそのまま書きつけたら、 十一使徒(※ママ)が笑うかもしれない。しかし、彼等はすでに祝福された彼等なのだから、ルカにはルカの文をゆるすだろう。
町のなかで一ばん静かな路に芸術家M氏の家がある。M氏一家が避暑に行った留守をMKが留守居していた。MKは、いま赤い本の編輯をしているMだ。ある夕方Mが一人でぼんやりしていると、Hが訪ねて来た。
二人の青年は寝ころがってその儘うたたねしてしまったが、夜が更けて門を叩く音がした。二人は起きて聴いた。夜はもう十二時すぎで、うちの門を叩いている、そしてM君、M君、あけてくれと声が云ってた。Mは出て行って門をあけると、Nだった。
Nはその日何かの人違いで芝の警察に留められ、夜遅くなって漸く人違いがわかって解放されたのだが、郊外の彼の家は遠かったし、ひどく空腹だったからこの家に訪ねて来たのだ。
Mは友人のために新しく御飯をたき、みそ汁もつくった。汁の煮えたつにおいが家じゅうに流れて、Hも食慾を感じ、僕も食おうと云い出した。Mは座敷に食卓を出し白いきれをかけて三人がその夜ふけの食事をした。じつにうまかったそうである。食事がすんだのは二時で、彼等ははなを始めた。
ふいとHが、Aさんもう寝たろうなと云った。もう、寝たろう、とNが云った。 その夜ちょうどその時分、A氏はその彼等から二、三町はなれた彼の家で、薬を飲みしずかに眠り始めた時だった。彼等はしばらく札をめくってまたNが云った、あす、帰るとき、Aさんとこへ寄って行こう。
僕もいく、Hも云った。Mは留守居だから、行くことは出来なかった。彼等はそれからも熱心に札をいじっていると、どこか遠く鶏が鳴きはじめ、むしあつい夜が夜明だった。寝ようか? 彼等はそこへ寝てしまった。もう朝の四時だった。
おそくなって目が覚め、朝飯をすますと彼等は昨夜云ったことを忘れて急いで帰って行った。
秋になってHからその話を聞いた時、A氏に愛された青年たちが無意識にお通夜をしていたのだろうと、私は思った。彼等の姿がA氏のゆめに映ったかもしれない。
そう思うことは、そう信じることは、たのしい。
N県O村に古くからの路があって、ちょうどOの村はずれで路が二本に別れ追分になっている。そこは小さな小高い丘になって一本の標示石が立っている。四角な柱みたいな石で、東にむいて立っている。おもてに「右、何々街道、左、何々道」と彫ってある。
A氏が丈夫の時分そこへ遊びに行った。非常に暑い日のひるで、その丘の腰掛で、一しょにいたHやMとみんなで煙草を吸っていた。HもMもまだ文科の学生だった。前夜の雨で空が非常に青く、山が、遠い山もちかい山もめざましく濃い色だった。かぜが強く、そこいらの桑畑の葉がざわざわしていた。突然A氏が、ここはあんまり静かで、しんじゃいたくなる、と云った。ひくい声だった。
側にぼんやり腰かけていたK氏が、それを聞きちがえ、ここはあんまり静かで、ひんじゃくだ、と聞いた。そして、ひんじゃくな方がいいんです、静かで、とつんぼの返事をした。みんな盛んに笑ったが、あとで、Kさんは耳が遠いのかしら? A氏がHに云った。するとそのあとでK氏が、Aさんは少し鼻が悪いのかしら、言葉がきき取れない、とHに云ったそうだ。
A氏が病気のはじめころ、いつだったか、原稿紙に書いてある歌をHにみせた。
二世安楽といふ字ありにけり追分のみちのべに立てる標示石にはタかけて熱いでにけり標示石に二世安楽とありしをおもふ
その時分もうすでに、遠く甘い死がA氏に顕われたものと見える。しかし、誰もその日はその石にあった字を読まなかったそうである。
それからずうっと後、IはKと結婚した。ある日二人は一緒にT町のだらだら坂を上がっていく時、向うから下りて来るA氏と行き会った。春かぜが吹きはじめる頃だった。A氏はさむそうな顔をして、ひょろひょろとほそい体が倒れそうに歩いて来た。
Kは丁寧に礼をした、KはM氏門下の詩人だったから。A氏は立どまってKと少し何か話して下りて行った。
Iはだまって側に立っていて、八年間にひどくかわったA氏を、驚いて、だまって見ていた。Aさん、おわるそうね! とKに云った。
あとで、A氏はその日の彼女が昔のIだときいて、ひさしぶりに会ってみたいと、二人をよんだ。二人の話をききながらA氏は眼をつぶって椅子によりかかっていた。そして時々眼をあけて何か云った。それは亡くなる一週間ばかり前だった。もう、ひどくお弱りになっていらっしゃいました、とIが話した。
ある夏、たぶん震災よりもあとだった、W伯爵夫人の友人たちが夫人の歌集出版の記念会をした。
ちょうど七月七日の夜で、七夕のかざりをし、笹の葉に短冊を下げた。短冊には万葉の七夕の歌をかいてあった。それから、梶の葉の形に紅白黄青(あかしろきあお)の紙をきりぬき、メニューにした。その夜A氏も招ばれて出席した。
食事がおわり別室で煙草になる時、大ぜいの女の人たちがその梶の葉のメニューを持ってA氏のまわりに駈けあつまり署名を求めた。一度に大勢がよりあって一人のA氏が波の中に沈んだように見えた。そのうち、もう沢山、もう沢山、とA氏は息を切って窓のとこへ逃げ出して立っていたが、まるで鬼ごっこみたいで愉快な光景だったそうだ。後日その会の出席者たちはしみじみ追懐した。愉快だったね、じつに。ああいう騒ぎは、ダンスみたいなもので、あれは、熱ね! とある一人が云った。それをきいてる私は、人気は熱なのだな、と思った。
A氏葬式の様子を人づてに聞いた時、私はまた、熱にみちた人間の波のよせ返る姿を考えた。
A氏がS町に行ってる時分は非常な元気だった。Sに温泉がある。その温泉にはいっては、小説を書いていた。小説は、すの字とか、への字とか、たの字の話とか、そんな風の小説だった。彼はかなり長くそこに落着いていたが、どうしても月末までに帰らなければならなくなった。
明日立つという前の晩、番頭がお電話でございますと云った。
どなた様でございますかお名前を仰しゃいません、もうお立ちになりましたかとお訊きになりますから、明日お立ちですと申上げましたら、それでは明朝こちら帰ります。 S駅でたぶんお目にかかれましょう、委細は汽車の中で申上げますからとおっしゃいました。そして、お目にかかれば分るとおっしゃいました。
その人は、そこの宿でなく、もう一つの宿に泊ったらしかった。A氏はここまで自分を訪ねて来た人が誰であるか分らなかった。
お声は、男の方のお声でございましたと番頭は云ったが。
翌あさ、S駅であっちこち見廻したが、だれの顔も見なかった。一晩中、好奇心をもたせるという悪戯かとも思いはじめ、汽車に乗ろうとすると、一人の赤帽が駈けつけて、あなたは、A先生でいらっしゃるのですか? いま、あちらでお客さんが探してお在でです、あちらの室ですからお知らせしてまいりますと云って、沢山の笹巻を網に入れたのを其処へ置いて駈け出した。
すぐに、その室へ、やあ、と云ってはいって来たのは、大入道みたいな大きな男の人だったそうだ。仕事の用事で、A氏に頼みに来て、そのたくさんの越後の笹まきをみやげに持って来たのだった。
どこかの乗換え駅でその人に別れて、A氏はその笹まきをはるばるK町に持ってゆきKM家に半分贈り、半分は東京まで持ち帰った。
あの時は、じつに、はかなかったね、その男の顔をみた時、とA氏はある酒の席で云った。それを聞いていた妓がある人に話した。とにかく、ルカはその話をほんとの話だと聞いたが、つくり話だかどうだか知らない。ほんとだろうと思う、それは、かなしく、またたのしい話だ。
(『婦人公論』一九二九年七月)